福田ひかり: ピアノリサイタル バッハ・ツィクルス1 バッハからのおくりもの

January 7, 2005

リサイタル情報

生前からクラヴィーアの名手として有名だったバッハにとってクラヴィーアは特に身近な楽器であった.一般にバッハのクラヴィーア作品といえば,チェンバロもしくはクラヴィコードのための作品を指すが,本日の演奏曲はいずれもその創作が旺盛だったケーテン時代(1717-23)とライプツィヒ時代(1723-1750)に成立したものだが,クラヴィーアが彼の音楽の根幹をなす一部だったことがよくわかる.

J. S. バッハ イタリア協奏曲 ヘ長調 BWV971

原題《イタリア趣味による協奏曲》,イタリアの合奏協奏曲様式を2段鍵盤のチェンバロ上で実現したものである.バッハはヴァイマール時代(1708-17)に主君の甥の依頼でヴィヴァルディを始めとするさまざまな作曲家の協奏曲をクラヴィーアに編曲したが,これによってイタリア風の協奏曲の手法を手中に収め,《ブランデンブルク協奏曲》などの多くの協奏曲を経てこの作品に到達した.「単一楽器による協奏曲の模範」(シャイベ)と評されたように,生存中から高い評価を受けたようである.協奏曲の基本原理である総奏と独奏の対比はp(上鍵盤)とf(下鍵盤)の対比という形で行われ,まるで合奏のような響きを実現している.また,急−緩−急の三楽章構成の中で追求された形式美と情緒表現のバランスは正に円熟期に達した巨匠ならではのもので,自分の作品の集大成を意識的に行っていたライプツィヒ時代に,《フランス風序曲》(BWV831)とともに『クラヴィーア練習曲集第2部』として作曲,出版されたのは意義深い.

J. S. バッハ 《平均律クラヴィーア曲集》第1巻,第2巻

ケーテン時代はバッハが教会音楽の職務から離れ世俗音楽の中に身を置いた時代だった.音楽好きの主君のもとで宮廷楽団のために協奏曲や室内楽曲を作曲,演奏したのだが,財政的理由から楽団の規模が縮小されたため1720年頃より創作の中心はクラヴィーア曲に移っていった.また,長男の成長に伴い,家庭での教育のための音楽が必要にもなった.こうして生まれたのが《ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのためのクラヴィーア小曲集》であり,この中の11曲の前奏曲が母体となり1722年,《平均律クラヴィーア曲集》第1巻が完成した.24すべての調による前奏曲とフーガのセットがハ長調,ハ短調,嬰ハ長調……という具合に半音階的に上行する形で配列されているが,フィッシャーの《アリアドネー・ムジカ》(1702)という先例があったにしても,当時としては非常に画期的な試みだったといえる.そして,単に全調を用いたというだけでなく,各調の性格を考慮した表現の追求,さまざまなタイプの前奏曲,あらゆる技巧を駆使し2声から5声に及ぶフーガと,多彩な世界が展開されている. 第8番 前奏曲はアリオーソ的.フーガは主題の転回や拡大を用い,古風なリチェルカーレ風.フーガが嬰ニ短調で書かれているのはニ短調の原曲を移調したため. 第13番 前奏曲,フーガともに愛らしい魅力に満ちている. 第2巻も第1巻と同じ曲数,配列をとっているが,その成立経緯は全く異なる.第1巻が長男の教育用という明確な目的を持っていたのに対し第2巻は特別な目的はなく,それまでに書かれた作品を集成した感が強い.曲集としての完成は1744年だが,各曲の作曲時期がケーテン時代から晩年までと長期間にわたるため様式的には第1巻以上に多様で,それは特に前奏曲において顕著である.第1巻では1曲しかなかった反復記号を持つ二部形式の前奏曲が第2巻では10曲に増えており,ソナタ形式への接近も窺える.フーガでは2声と5声がなくなり,意欲的な3声フーガが多いのも特徴的である.また,主題の性格がより明確になり,その操作方法もより自然になっている. 第5番 前奏曲はソナタ形式に近い.華やかな管楽器の合奏を思わせる.対してフーガは厳格な書法をとる. 第21番 前奏曲はパストラーレ風の二部形式.フーガは8分音符の動きを基調とし,ややホモフォニック.

J. S. バッハ 半音階的幻想曲とフーガ ニ短調 BWV903

バッハの最初の伝記作者フォルケルは「このひときわ技巧的な作品は,きれいに弾きさえすれば,どんな教養のない聴き手にも感銘を与える」と述べている.どのように「きれいに弾きさえすれば」なのかは議論のあるところだろうが,いずれにせよ,この異彩を放つ作品の魅力を端的に表している.大胆な構想と豪華絢爛な響きは19世紀から高い人気を得てきたが,そうした表面的なものの奥に潜む熱いパトスが聴き手を捕らえて離さないのではないか. 作曲は1720年頃,その後1730年頃に改訂されたと考えられている.1719年,ケーテン宮廷はバッハの見立てでベルリンから大チェンバロを購入したが,この楽器に刺激されてこの曲が書かれたと推測される.大胆な半音階と異名同音による転調を基本に,トッカータとレチタティーヴォからなる幻想曲と枠にとらわれず自由に展開する3声フーガで構成されている.


文: 福田ひかり

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