福田ひかり: ピアノリサイタル バッハ・ツィクルス4 家族のアルバム

November 21, 2007

リサイタル情報

以前からJ. S. バッハのクラヴィーア作品に接するたびに,何か温かいものを背後に感じていました.その正体は何なのか,長い間疑問に思っていましたが,今回取り上げた《インヴェンションとシンフォニア》や《アンナ・マクダレーナ・バッハのための音楽帳》を通して,その答えを見つけたように思います.

J. S. バッハ 《インヴェンションとシンフォニア》より

ピアノ学習者が避けては通れない《インヴェンションとシンフォニア》は2声のインヴェンションと3声のシンフォニア各15曲からなります.その初稿は,バッハの長男フリーデマンの教育用として1720年から書き始められた《ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのためのクラヴィーア小曲集》に見られますが,バッハとフリーデマンの筆跡が混在していることから,この小曲集は練習曲というよりもむしろ作曲入門的性格を持つものと考えられてきました.このことを証明するように,最終稿(1723)の序文には,ポリフォニーの正しい処理法とカンタービレ奏法の習得という演奏技術面の目的とともに,「……すぐれた着想(=インヴェンション)を得てそれを巧みに展開すること……」という作曲的意義も掲げられています.ここに作曲・演奏の総合的教育を図ろうとするバッハの並々ならぬ意欲が見てとれるでしょう.実際の楽曲をみると,冒頭に提示された1つの動機がわずか2ページの中で徹頭徹尾展開されますが,そうした制約下にもかかわらず生み出された音空間の多様性と広がりには驚くばかりです.本日は,同じ調のインヴェンションとシンフォニアのセットを自由に並べて演奏いたします.楽譜とは異なる順番ですが,このように演奏することで,各曲の個性の違いだけでなく,2声から3声への音空間の広がりも感じ取っていただけるのではないかと思います.

J. S. バッハ 《アンナ・マクダレーナ・バッハのための音楽帳》より

一方,2度目の妻アンナ・マクダレーナに贈られた2巻の《音楽帳》はフリーデマンのそれとは性格を異にしています.結婚の翌年(1722)に贈られた,5曲のフランス組曲の初稿を含む第1巻はその大半が失われていますが,第2巻(1725)はバッハ家の日常的な音楽生活を偲ばせる内容となっています.よき妻,よき母として家族を支えたアンナ・マクダレーナは一方で優れたソプラノ歌手でもあり,夫の作品を写譜したり他の町に招待された夫に同行して演奏に参加するなど,トーマス・カントルという要職にあったバッハの助手的存在でもありました.そうした妻の献身に応えて,バッハは第2巻の冒頭に2曲のパルティータを書き込み妻に贈りました.その後はアンナ・マクダレーナや息子達の手でバッハやバッハ以外の作曲家の舞曲,息子達の習作,声楽曲などが10数年にわたって記入されていったのです.音楽に囲まれたバッハ家の団欒の様子が目に浮かぶようです.本日はこの第2巻より以下の5曲を演奏いたします.

メヌエット ト長調/ト短調 BWV Anh.114/115
広く親しまれている愛らしいメヌエット.近年C. ペッツォルト作と判明した.
コラール「神の御心に委ねるものは」BWV691
J. S. バッハ作.装飾されたコラール旋律をソプラノに持つコラール前奏曲.
ミュゼット ニ長調 BWV Anh.126
作曲者不詳.生き生きとしたリズムが楽しい.
コラール「おお永遠,汝おそろしき言葉」BWV513
J. S. バッハ作.ソプラノ旋律と通奏低音が記されているが,普通は4声合唱で演奏されることが多い.
アリア ト長調 BWV988,1
J. S. バッハ作.《ゴルトベルク変奏曲》の主題.

J. S. バッハ パルティータ 第6番 ホ短調 BWV830

さて,先述の《音楽帳》第2巻の冒頭に記された2曲のパルティータのうちの1曲を改訂し,最終稿として1730年に出版したのが《パルティータ第6番》です.これは翌1731年に,先に出版された5曲のパルティータと合わせて『クラヴィーア練習曲集第1部』としてまとめられました.第6番は,バッハの鍵盤組曲集の最後を飾るにふさわしい堂々たる大曲となっています.

トッカータ:自由奔放な即興的部分と大規模なフーガからなる3部分形式.初稿での題は「プレリュード」.
アルマンダ:付点リズムが特徴的なイタリア風アルマンド.
コレンテ:一貫してシンコペーションで構成されたイタリタ風クーラント.
エール:ガヴォット風のリズムを持つ.初稿にはなく,最終稿で挿入された.
サラバンド:非常に装飾され,内省的な表情を持つ.テンポ・ディ・ガヴォッタ:ジーグに近いリズムを持ち,次の「ジーグ」楽章へと誘導する.
ジーグ:減7度音程と力強い付点リズムを持つ主題が厳格な対位法処理を受け,鮮烈で迫力ある音響のうちに曲を閉じる.

こうしてバッハの家族へ向けた作品を辿ってくると,家族への深い愛情と幸せな家庭生活,それこそがバッハの音楽活動の源だったのではないかと思えてきます.そこから生まれた温かい音楽がいつまでもみなさまの心に鳴り響くことを願ってやみません.


文: 福田ひかり

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