鳥越由美: ピアノリサイタル

October 9, 1995

地元・岡山の先輩、鳥越由美さんのリサイタルのために書かせていただきました。 鳥越さんは現在、くらしき作陽大学で教鞭をとられています。 鳥越さんのピアノは実に大胆で力強く、そのメリハリのきいた演奏を聞くといつも、充実感と同時に、のどごしの良さとでもいいましょうか、爽快感を覚えたものです。近年はブラームスの後期作品に集中して取り組まれているとか。距離的な問題でなかなかお聞きできないのが残念です。


鳥越由美ピアノリサイタル
1995年10月9日(月)18:30開演
津山文化センター大ホール

今宵のプログラムでは、18世紀から20世紀にわたる鍵盤音楽の魅力がいちどきに味わえる。その時々に一番新鮮だった響きはどんなものだったか、そこに思いを馳せる時、心の耳は自然に過去へと遡る・・・

ドメニコ・スカルラッティ ソナタ K.119/L.415, K.141/L.422, K.213/L.108

1685年という偉大な年–J.S.バッハ、ヘンデルの青年である–ドメニコ・スカルラッティ Domenico Scarlatti(1685-1757)は、イタリア・オペラの代表的作曲家アレッサンドロ・スカルラッティの息子としてナポリに生まれた。しかし、彼の人生は庇護者ポルトガル王室及びスペイン王室と共にイベリア半島にあった。イギリスの音楽史家バーニーが「・・・彼が耳にした御者や馬追い、一般民衆によって歌われている歌の旋律を取り入れて・・・」と語っているように、陽気なナポリ気質を根底に持ちながらも、彼の音楽にはスペインでの経験が大きく影響している。 彼の主たる創作は555曲にのぼるハープシコード・ソナタである。音楽に非凡な才能を示したポルトガル王女マルア・バルバラの教育用として書かれたこれら一連のソナタは、いわゆる古典派ソナタとは全く別物であり、むしろ単に演奏曲とか練習曲と考えたほうがよい。形式的には、バロックの舞曲に典型的な2部分形式を採っているが、この単純な形式の中にヴィルトゥオーゾの枠を集めた技巧と多彩な音色が見事に実現されており、当時としては実に新鮮で大胆なクラヴィーア様式だったといえよう。 K.119/L.415 ニ長調 3/8拍子 Allegro 手の交差、幅広い跳躍といったアクロバット的な技巧とマンドリンやカスタネットを想起させる単音・和音の連打が印象的な軽快な曲。 K.141/L.422 ニ短調 3/8拍子 Presto 冒頭の表題(“Toccata”)通り、トッカータの即興的要素の持つ激しさが前面に出た曲。鋭く突き刺さるような連打と衝撃的な和音のかき鳴らし、急速に落ちるスケールやアルペジオは、情熱の国スペインを彷彿とさせる。 K.213/L.108 ニ短調 4/4拍子 Andante 先の2曲よりも少し後の作品。先の華々しい性格とは対照的に、叙情的、内向的な性質を示している。ハープシコードの音色に対するスカルラッティの洗練された感覚が非常に詩的な形で表れている。 なお、スカルラッティのソナタは、2曲一組あるいは3曲一組の形で作曲された、ないしは配列されていたと考えられているが、その構想が演奏実践の上で適用されるべきか否かは議論のあるところである。

スクリャービン 前奏曲 作品11

時代は変わって、帝政ロシア末期である。この時代、いわゆる<五人組>とは一線を画して独自の世界を切り開いた作曲家がいた。それが、スクリャービンである。彼はもともとピアニストであり、現在でもいくつかの録音によってその卓越した演奏に触れることができるが、ピアノこそ彼の本領発揮の場だったことが、作品・演奏の両面から容易に想像できる。 初期の作品は、ロマン派、特にショパンの影響を強く感じさせるが、ポリリズムや交差フレーズなどを多用した網の目状のテクスチュアとペダルを駆使した甘く柔らかい魅惑的な響きは、後のスクリャービンの作曲法の基盤となった。《前奏曲 作品11》はそうした初期作品群の代表作であり、ショパンの《24のプレリュード》を強く意識して、5度圏に沿ってハ長調→イ短調→ト長調・・・の順に24曲を配列している。 第1曲 ハ長調 2/2拍子 Vivace スクリャービンお得意の5連符の連続が交差フレーズの手法により拍節とのずれを引き起こす。息の長いフレーズの流麗さと高音部のきらめきが印象的。 第5曲 ニ長調 4/2拍子 Andante Cantabile モティーフである a-h-cis-d の四音音階が、ゆっくりと幅広く進む左手にのって夢見心地に響く。 第11曲 ロ長調 6/8拍子 Allegro assai ロマンティックな節回しのソプラノの透き通るような旋律と流麗なアルペジオ伴奏。スクリャービン的な和声の色彩を感じさせつつ、真にロマン的な一曲。 第9曲 ホ長調 3/4拍子 Andantino 和声の微妙な色合が美しい内省的な曲。

スクリャービン ソナタ 第5番 作品53

これに対して、《ソナタ第5番 作品53》は正にスクリャービンらしい作品である。 1905年に彼は神智学者ブラヴァッキーの著書に出会い、生来の神秘主義的特質を決定的に深めることとなった。《ソナタ第4番 作品30》においてもその傾向は既に示されていたが、第5番では思想的にさらに深められ、宗教的神秘体験を音楽のエクスタシーと結び付けようとした。冒頭には《交響曲第4番「法悦の詩」》の一節が掲げられている—-私はお前を生へと招く、おお神秘の力よ!/創造の精神の模糊として深みに沈む/生のおどおどした胎児。/そのお前に、私はいま大胆さをもたらす(佐野光司訳)—-構成は、序奏部を持ち、展開部とコーダが拡大された単一楽章であり、以後のソナタや交響曲の定型となった。和声的には、機能和声の枠内にかろうじてあるとはいうものの、カデンツの持つ緊張–弛緩の関係はもはや認められず、和声は官能的音響、神秘主義的色彩を担うものとしてのみ存在している。楽譜には至る所に表情記号の細かな指示があり、スクリャービンの綿密な意図が窺える。

シューマン アラベスク 作品18

さて、本日の真打ち、シューマンの登場である。彼ほどロマン主義の名に相応しい音楽家はいない。ジャン・パウルやノヴァーリスといったロマン主義文学の騎手たちの影響を受け、作曲だけでなく音楽批評でも、その文学的素養を生かして自ら主宰した「新音楽時報」において独自の音楽論をあますところなく展開した。ショパンやブラームスを最初に認めたのもまた彼なのである。 シューマンの創作の特徴の1つはある時期に1つのジャンルを集中して作曲していることだが、クラーラとの結婚(1840年)まではピアノ音楽に専念し、傑作を次々と生み出した。そうした中で、《アラベスク 作品18》(1839)は、彼の創作の主要部分を占めるような作品ではないが、シューマンの詩情が軽やかで優美な雰囲気の中に織り込まれた珠玉の小品である。単純なロンド形式によるこの曲は《子供の情景》などに通じるような愛らしさと親しみ深さを持っており、後年イギリス演奏旅行の際にクラーラがこの曲を愛奏したというのもうなずける。

シューマン 謝肉祭 作品9

しかしなんといっても、シューマンの本領が発揮されたのは、小曲を真珠のネックレスのようにつないだ「小品組曲」においてである。小品組曲は1835-39年に集中的に作曲されたが、《謝肉祭 作品9》(1834)はその最初に位置し、楽曲の完成度の点でも秀逸である。副題の「4つの音符に基づく小景」の示す通り、当時のシューマンの恋人エルネスティーネの出身地アッシュ Asch という地名からA-Es-C-H、As-C-H、さらにこれらの文字がSchumannの姓にも含まれていることから Es-C-H-Aの音列を見出し、これらの音列を主題的に用いて曲全体を一種の変奏曲のように構成した。おそらくシューマンは文字に隠された自分とエルネスティーネとのつながりに心ときめかし、この文字遊びに夢中になったのに違いない。 全21曲には、謝肉祭につきもののコメディア・デラルテの登場人物の他に、「新音楽時報」に登場するダビデ同盟員も顔をのぞかせる。ダビデ同盟とは、旧約聖書のダビデとペリシテ人の話に基づき、俗物を退けて崇高な音楽を作ろうとする、シューマンの空想上の産物である。その中心的存在、衝動的革命家のフロレスタンと若い夢想家のオイゼビウス、そして2人の仲介役で賢明な大家ラロ先生はシューマンの多重人格的側面の現われである。「仮装」という要素が謝肉祭に不可欠のものであり、またこの時代、仮装が本質的なものを追求する人間の不安の現われでもあることを考えると、シューマンの分身ともいえるこれらの人物の謝肉祭への登場は、シューマンの内面世界の複雑な感情の動きを表しているといえよう。 1. 前口上 オーケストラの音響を思わせるほど輝かしい序奏の後、様々な素材が息をつく間もなく展開されていき、曲はいやが上にも高まる。終結部のヘミオラはその高揚感をさらに煽り立て、カーニバルの幕は切って落とされた。 2. ピエロ スラーとスタッカートの対比、変則的なアクセントはおどけと哀愁を併せ持つピエロの肖像か。 3. アルルカン こちらは楽天的で陽気な道化。2拍目のアクセントが効果的。 4. 高貴なワルツ 大胆に下行するオクターブと息の長い旋律による悠々としたワルツ。 5. オイゼビウス 7連符と2/4の交錯は瞑想に耽るオイゼビウスの心の動き。 6. フロレスタン 爆発寸前の高揚したエネルギーがぶつかり合い、その頂点で宙に迷う。 7. コケット 8. 応答 激しさの後のコーミッシュなはぐらかし。交わされる会話は粋で小気味よい。 9. パピヨン ひらひらと舞う蝶々のように文字も舞い踊る。 10. A.S.C.H.–S.C.H.A. 踊る文字 スケルツォ的に文字が跳ねる。 11. キアリーナ クラーラのイタリア風の読み方。情熱的で一筋縄ではいかないクラーラの16才の肖像が愛情深く描かれる。 12. ショパン ショパンの様式を的確に捉えた音による肖像画。しかし、それはやはりどこまでもシューマン的なショパンである。 13. エストレルラ エルネスティーネに対するシューマンの一瞬にして燃え上がった情熱が窺える。 14. めぐりあい 以前出会ったことのある人との仮面舞踏会での再会。懐かしくもあり、またほっと心安らぐ一瞬である。 15. パンタロンとコロンビーヌ コメディア・デラルテの主役の男女カップル。喧嘩あり、しんみりした場面もあるが、結局のところ落ち着くところに落ち着くのである。 16. ドイツ風ワルツ 17. パガニーニ 「ドイツ風」と言っても多分にシューマン的だが、間に挿入されるパガニーニのイタリア風との対比が面白い。 18. 告白 内に秘めた情熱の真摯な告白。クライマックスへ向けての一瞬の静寂さ。 19. プロムナード 大広間から外へ出てあたりをそぞろ歩く。 20. 休息 冒頭曲の渦巻くような動機が再度用いられ、クライマックスに向かってエネルギーが貯められる。 21. ペリシテ人と闘うダビデ同盟の行進 3拍子で進むダビデ同盟の雄々しい凱旋。冒頭曲と同じ音楽的内容でシューマンの理想的な芸術理念が高らかに歌い上げられる。めくるめく高潮のうちに輝かしいトニックの和音で曲は締めくくられる。


文: 福田ひかり

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